【現在地:チリ/サンティアゴ】
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2016年7月26〜27日
前回のサンパウロの町歩きで紹介してなかったエリアがあります。
それは、リベルダージ地区にある東洋人街です。
通りはさながら日本の駅前商店街のような雰囲気を醸し出していて、提灯型の街灯や、日本語で書かれた看板などが見られます。
横断歩道に設置された信号機には鳥居や提灯が赤や青に点滅していて可愛い。
日系人が経営する商店が400店舗ほどあると地球の歩き方には書いてありましたが、ざっと見た感じ、中国人が経営している様子のお店が多かったです。
でも売られているものは日本のものも多くて、例えばこのスーパー。
日本のスーパーで売られているものが輸入されていて、米、おにぎり、寿司、弁当、お菓子、せんべい、焼きまんじゅう、寒天、マヨネーズやソース類、すき焼きや焼肉のタレ、うめぼし、ふりかけ、ちくわ、カレー、パン粉、豆腐、紅生姜、こんにゃく、梅酒、焼酎、日本酒、ほんだし、カップラーメンなど、ここに行けば何でも日本の食品が手に入るんじゃないかってくらいの品揃えでした。
このエリアを歩いていると、本当に日本にいるかのような気分になります。
外壁には日本を思わせるような絵が描いてあったり、
日本庭園と書かれた場所には、小さな池に鯉が悠々と泳ぎ、笹の木に括り付けられた短冊が風に揺られくるくる回っていたり、、
そんな地球の裏側の日本人街へやってきたのはただ単にその雰囲気を味わいたかっただけではありません。
日本人街の一角にあるこの施設に訪れるのも目的の一つでした。
ブラジル日本移民史料館
日伯文化協会ビルの7〜9階にある日本移民の生活と社会背景を伝える史料館です。
なんでここにきたのかというと、バウルで2週間、たくさんの日系人の方と過ごしてみて、100年以上も前にブラジルにやってきた日本人が、どのようにして暮らしてきたのかということを知りたくなったからです。
日本の文化も心も大切に受け継いでいる彼らを見て、移民という歴史を知ることは日本人として大事なことなんじゃないかなと思ったので、この史料館を訪れました。
はっ!
ただのまじめかよっ!
さて、受付で入場料10レアル(315円)を払って中に入ってみましょう。
史料館内部にはたくさんの展示物や写真、その説明書きが時系列順に掲示されていました。
以下、その説明書きを抜粋して内部の様子を紹介していきたいと思います。
日本人のブラジル移民の歴史は1908年に始まります。
第一回移民、笠戸丸の人たちがサントス港に上陸。
移住が最も盛んだった1930年代前半には、毎月何隻もの移民船が日本とブラジルの間を往復しました。
太平洋を越えてパナマ運河経由だと45日、
インド洋を渡り、南アフリカのケープタウンまわりだと60日もかかるという長旅だったそうです。
実は日本人が移民をする60年も前からドイツ人やイタリア人がブラジル南部の開拓を進めサンパウロ州のコーヒー農場でも、多くのヨーロッパ移民が労働者として働いていました。
移民としてやってきた人たちのブラジル生活の第一歩はコロノ(短期契約農民)としての生活。
衣食住やコーヒー園の作業など、初めての経験ばかりで、慣れない道具を使ってする仕事はかなり辛いものだったそうです。
それらの道具を駆使し、新しい土地を開拓する毎日は、原始林に住んでいる野生動物たちとの出会いの連続。
おっかなさすぎる、、、
植民地での暮らしは、移民たちがブラジルの環境にどのように適応していったか、いわば、生活の知恵を働かせた時代。
新しい道具を生みだしたり、食生活の面では臼やせいろうを作って、モチをつき、みそ、醤油をはじめ、豆腐などもつくりました。
また、コーヒー耕地入植当時は野菜がなかったので、雑草を野菜がわりに副食しました。
コーヒーが実って収入があるまでの数年間、このような小屋に住んでいました。
この小屋は、日本から来て4年後、両親と子ども3人の過程を想定して復元したそうです。
そして自分たちの土地ができ、村づくりを始めました。
仕事は厳しく、生活は貧しくとも、植民地の暮らしには、心の安らぎが得られました。
そこは日本人ばかりの集団だったので、コーヒー農場のように監督もおらず、ことばの不自由もなく、のびのびと暮らすことができました。
大木から作ったくり舟(カヌー)は通学や生産物の運搬に使われました。
囲碁の好きな人は粘土を焼いて碁石を作ったり、竹や木をけずって尺八を作ったり、野球や相撲、陸上競技なども行われるようになりましたが、なんといっても、いちばんの楽しみは村の人たちが総出で催す運動会だったそうです。
自分たちの土地での穀物栽培は、初めはジャガイモでしたが、次第にトマトや葉野菜類も加わり、さらに果物や花の栽培も盛んになり、養鶏も同じようにして伸びました。
サンパウロ近郊で日本人がはじめて手をつけた園芸農業はその後年々盛んになり、他の都市郊外でも発展。
特にブラジルにおける採卵、養鶏の約7割は日系人の手にあると言われています。
桃や柿の本格的な栽培は日系人によって始められ、また品種の導入、改良も行われましたた。
戦前戦後とも、日本人移民は主として、サンパウロ州へ入りましたが、その一部はアマゾン地域へ入植しました。
熱帯での農業を経験したことのなかった移民たちは、いくたびもの試験や失敗を繰り返したのち、この地域に適した麻と胡椒の品種を作り出すことに成功しました。
野菜、果物、庭木などでも、日本の栽培植物は全部と言って良いほどブラジルに入れられています。
ということで、日本移民がブラジルの農業にもたらした功績は数多くありますが、特に技術の革新の面で大きな役割を果たしています。
日本やその他の国から新しい作物を入れ、この国の気候や土壌にあった品種を作り出しました。
移民たちはこの集約農業をここブラジルで取り入れ、果物の栽培や養鶏なども取り入れた、多角農法を発展させました。
未開拓の広い土地をもつブラジルでは、生産の増加とは原始林を開いて耕地を増やしていくことでしかなかったのですが、移民たちは生産を高める新しい形の農業を作りだし、このことは専門の学者たちが日本移民の功績としてみとめています。
その後、日本人による医療機関が誕生したり、日本人街ができたり、自分たちの利益を守るために組合を作るようになったりと、飛躍的な発展を遂げるようになりました。
しばらくして、2世や3世も成長して、各方面で活躍する時代がやってきました。
しかしここは異国の地。
彼らは、日本とブラジルのナショナリズムの流れの中で板挟みの苦しみを味わうことに、、
例えば日本語新聞の発行禁止、日本語学校の閉鎖などは移民たちのコミュニケーションを断ち、深い挫折感を与えました。
そんな中、日本が太平洋戦争を始める時期になると、移民たちは大きな不安と動揺の中に投げ込まれ、混乱も起きました。
日本の勝利を信じていた人たち、敗戦を受け入れた人たち、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の対立も起きましたが、最終的にはここブラジルを永住の地と考えるようになります。
そして再び、1953年から移住が再開。
戦中戦後の約10年にわたる空白の時代を経て、戦後移住者は今日までに約6万人。
1960年代は日本・ブラジルの高度経済成長の波に乗って、多数の日本企業が移住するようになりました。
1970年代までに約250社が進出したと言われています。
例えば、三菱商事、野村、三井物産、カネボウ、住友銀行、味の素、富士フィルムなど、日本で有名な企業がどんどん進出していったのです。
しかし、1980年代には、ブラジル経済に歪みが生じ、多くの企業が撤退しました。
その一方で、在伯日本人、及び日系人の起業家は農業で得た資金を投資して、商工業分野に進出するのでした。
ブラジルの経済が破綻していた時期、日本は安定した経済状況。
1989年に改正された日本の出入国管理法に後押しされ、3世までの日系ブラジル人とその家族を無制限に受入ることになると、多数の日系ブラジル人が日本に出稼ぎにくるようになりました。
2年契約での入国でしたが、彼らの多くは日本定住を望み永住権や日本国籍を取得しました。
今では日本には日系ブラジル人が約35万人以上定住しているそうです。
ということで長くなっちゃいました。てへ。
ブラジル日本移民史料館の滞在時間は1時間30分。
個人的にはこの史料館に行ってみてすごく勉強になりました。
実は日本と強く結びつきのある国、ブラジル。
移民の歴史を知れたし、ブラジルの経済の発展に貢献したということが日本人として誇らしく思えたし、冒頭に述べた通り、僕自身もサンパウロに来る前に、バウルで日系人の方々と2週間過ごさせてもらいましたが、なんか日系人と区別するのはあんまり好きじゃなくて、同じ故郷を持つ人種としていろいろ考えることもありました。
こういう風に、歴史を学ぶことって本当に大事なことだなって思います。
自分の知らなかった世界をリアルに肌で感じて、新しいことを吸収していく。
これだから旅は面白いですね。
たまには真面目な記事も。ってことで、、、
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